王振国物語

貧しい少年時代

王振国は1954年に吉林省通化市郊外の農家の家に生まれる。家の家計は厳しく、十二羽の鶏が産む卵が唯一の現金収入だった。

当時、貧しい家の子供は働き手となるために学校に通う余裕はなかった。しかし、王少年は、漢方の名産地長白山の麓で天然薬草狩りをして、それを街で販売して家計を助け、さらに小学校・中学校へも通う、勉強熱心な少年だった。薬草狩りは大人の専門家の仕事だが、王少年は大人顔負けの仕事ぶりだった。

医者になることを強く夢見るようになったのは一九七〇年、王少年が十六歳のことだった。その年の春に母が突然胃から出血をして倒れた。 王少年は都会の病院まで母を連れて行った。病院に入ったとき、医者が王少年のみすぼらしい身なりを見るなり、王少年を病室から追い出し、病床に入れさせなかった。四日間続いた母の病床生活だったが、彼は病院の外にうずくまり、医者が不在を見はからって母を看病するしかなかった。寒空のなかで病床の母の孤独を思い、一人泣きながら不公平を憎み、いつか自分は農村で貧しい人も公平に治療する医者になると心に強く誓ったのだ。

養豚所勤務と医学院時代

王少年は中学を卒業後、養豚場に就職する。しかし、薬草への興味と医者への夢は失うことなかった。貧しい境遇から医者になることは難しいことは百も承知だったが、養豚場の少ない給料をはたいて薬草の専門書を買い、薬草の宝庫と呼ばれる「長白山」の薬草と調合の研究に没頭した。

その頃、転機が訪れた。村に気管支喘息を患い苦しんでいる老人がいて、王少年が調合した薬を老人に与えると、二、三日で効果が現れ、一ヶ月もすると畑仕事が出来るくらいに体力が回復したのだ。その噂が村中を駆け巡った。そして、たくさんの人が王少年を頼りにしてくるようになったのだ。

それからも村中の人々の病気を自ら調合した薬で治していると、「あの村に薬草に詳しく、病気を治す青年がいる」という噂が付近の村民にまで広がった。それが人民公社衛生学院の院長の耳にまで届き、その院長が王少年を医師養成学校に呼び寄せたのだった。こうして幸運にも、医師になる手がかりを掴むことが叶ったのだ。

医師養成学校時代も貧しいことに変わりはなく、王少年だけ継ぎ接ぎだらけのズボンを穿いていた。生徒は裕福な家庭の子供ばかりで、王少年は貧しい身なりから笑われ、友達づきあいも出来なかった。そのことがいっそう王少年を医学の道へと駆り立てた。結果、十六の科目のうち十四において最高評価という成績で卒業したのだった。

医師見習い時代

医師養成学校を卒業後、医者見習いとしての道を歩みだした王振国青年は、あるきっかけを機にガン治療へ情熱を燃やすことになった。ある日のこと、ガン病棟の病室から十二歳の少女が飛び出してきて、王青年の足元にひざまずき、涙をいっぱいためながらこう懇願したのだ。『先生、私のお母さんを助けて下さい!』見れば、病室の母親らしき女性は末期の肝臓ガン患者で、お腹が妊婦のように膨れ上がっている。一緒にいた主治医の話では、余命はあと十数日とのことだった。痛みに苦しむ母の姿に耐えかねた少女は、まだ医者ともいえないような王青年に助けを求めたのだった。しかし、そんな思いもむなしく、一週間後にその少女の母親は亡くなってしまった。王青年は、医者になっても患者を助けてあげることもできないんだと、非常に悔しい思いをした。

当時の王青年は、ことガンの治療に関してごく浅い知識しかなかったが、これほど進んだ西洋医学でもガンは治せないという現実に打ちのめされ、それならば、中国医学にガン治療の道があるのではないかと考えたのだ。当時の王青年はガンという病の恐ろしさ、難しさを知らなかったのに、無謀な決意といえなくもないが、「自分の生涯をかけて、ガンを治療する漢方薬を発明しよう」と決心したのだった。

がん治療の研究、研究所設立

医師となったドクター王振国は、ガン治療のために漢方薬草や処方の情報収集から取り組み始めた。

最初に人民解放軍にある、膨大な資料が集まっている立派な図書館に目をつけた。そこの図書館を利用するために人民解放軍の衛生員になった。図書館には歴代皇帝のために編まれた歴史的な薬草書が豊富にあったのだ。4年勤務した間に薬草や処方を800種類以上も集めた。しかし、ガン治療に有効な情報はまだまだ足りなかった。

次に、ドクター王振国は通化市の公務員となって、中国各地をまわり、その土地土地に伝わる「民間療法」や「幻の処方」についての情報をひたすらに集めた。各地で集めた処方の種類は1200種にも上った。中には数里先まで激臭がすると言われる幻の処方もあった。

ドクター王振国は大量に情報を集めると、仕事が終わって帰宅した後に情報の有益性を確かめ、生薬を分析する作業に没頭し始めた。そのうちに、研究に割かなければならない時間が仕事後の時間だけでは足りなくなり、ついに公務員を休職して、自費で自宅に「通化長白山薬物研究所」を設立し、生薬の分析、ガン治療に効果的な処方の試験と実験に明け暮れた。

1983年、ドクター王振国はついに抗ガン薬としての自信作「天仙丸」が完成させた。若干29歳のときのことだった。

しかし、長い歳月をかけて研究開発した「天仙丸」だったが、まだまだ大変な苦労が待ち構えていた。臨床試験を頼みに天仙丸を病院に持ち込んでも、「漢方薬がガンに効く訳がない」と誰も取り合わないのだった。当時のガン治療は西洋医学のみによる治療が中心であったし、漢方薬は効能・効果の科学的根拠が証明されてないものが多かったため、信用されていなかったのだ。「10年以上かけた研究が水の泡か・・・」と失望に打ちひしがれ、肩を落とした。誰にも見向きもされないのだった。

しかし、またも幸運がドクター王振国に舞い降りてきた。末期の胃がん患者で医者に見離されてしまった老人がドクター王振国を訪ねてきたのだ。天仙丸を渡したところ、2ヵ月後にその老人の胃ガンは消滅してしまった。その噂を聞きつけたがん患者がこぞって長白山薬物研究所を訪ねてくるようになったため、ついに自宅は医者に見離されてしまったガン患者の駆け込み寺になってしまったのだ。

薬効が証明され、夢をかなえ続けるドクター王振国

こうなると、ドクター王振国の天仙丸は放っておかれるわけがない。すぐに権威ある病院での臨床試験が手配され、一九八六年には中国政府が天仙丸の研究開発チームを国家プロジェクトとして立ち上げ、さらに一九八八年にはアメリカの国立がん研究所関係者によって臨床試験が行われた。

その結果、天仙丸は中国政府から「初の抗がん治療薬」として認可されたのだった。さらに、一九八九年ブリュッセルで開催された第38回ユーレカ世界発明博覧会において金賞受賞、一九九〇年には中国十台傑出青年として中国指導部の江沢民等から表彰を受けた。天仙丸はその後、改良を重ね「天仙液」として、世界中で服用されてガン治療の大きな助けとなり、世界各国から西洋医学によるガン・難病治療に限界を感じた患者が王先生を訪れている。

現在、ドクター王振国はガン治療の研究を進める一方、これ以上難病患者を増やさないために、「ガンなどの生活習慣病の予防」と「アンチエイジング」の研究を精力的に進めている。西洋医学の限界が広く認知されるなか、ドクター王振国の漢方によるガン治療のノウハウを応用した「漢方サプリメント」、アンチエイジング効果のある「漢方コスメ」等の商品が今世界中から注目を集めている。